心を乗せる

文章に心を乗せるって難しいです。

およそ大人になるほど上辺を取りつくろい言葉を飾る悪癖に陥りやすいですが、心の乗っていない文章はただの記号に見えます。それどころか、「良く見せよう」などという卑しさを込めた文章には邪念が宿ります。やはり文章においても、最も重要なのは「心」のようです。


これは詩においても同じようで、僕は(我流の遊びですが)少しだけ詩を書いていました。

しかし、書いているうちに自分の詩に違和感を覚えました。というのも、その詩は自分から見ても不自然に堅く、まるで機械が喋っているように聞こえるのです。端的に言うと、四季が流れるような豊かさがありません。


豊かさを感じるような詩と何が違うのだろう?と思って他の方の詩を見ている間に、詩は心で書くものだと気づきました。

でも今の僕では思うように心を乗せることができなくて、それはおそらく心を開かない堅さがあるからで、まだ自分の心に自信が持てないのかもしれません。それでまずは心(を修養すること)と向き合おうと思いました。


短いですがおしまいです。多分次はもう少し長いのを書きます。

夢を見て

寝ている時に見る夢の話です。


昨日、知らない人に銃を向けられる夢を見ました。(もっと言うと撃たれましたが、外れました)


何やら物騒だし滅多に見ない夢なので、気になってネットで少し調べてみました。

すると、銃を向けられることには「恐怖心のあらわれ」や「自信の喪失」を意味することが多いそう。

上記の意味が主ですが、男性がこの夢を見た場合の見解はかなり分かれるようです。(女性の場合は、興味のない男性に好意を持たれ苦しんでいるのを示しているというのが通説のようです)


今回のこの夢は、僕にとって「自信の喪失」を表していると思いました。というのも、自分ではこの数年で精神的にも変化を遂げることができたと思っていたのですが、先日も少し書いたように、まだ相当な驕りが残っていることに気づいたからです。


「驕り」は明らかに僕の課題です。そのため、このブログでも外部の事情を扱うのではなく、しばらくは自分と向き合う趣旨で書いてみようと思いました。しかし、何を書けば良いのだろう?と悩んでいたところです。


さて本題に入ります。指針に悩んでいることもあってまた読書をしているのですが、先日『荘子 (岩波の第四冊)』を読んでいて、以下の言葉が出てきました。


「分かっていながら言わないでいるというのは、自然の道理に近づいていくことであるが、分かったことを表現して話すことは、世俗の人の立場に近づいていくことである」


意味がわかりませんでした。分かっていることを話すのが自然に背くなら、何を話せばいいんだ?と。


でも確かに、たとえば将棋で知っている手しか指さない、あるいは手くせで絵を描き続けるというのでは「変化」が生じません。

自然は変化をし続けるので、慣れている方法だけを続けるのでは変化がなく不自然になると言えます。したがって、分かっていることだけを話すのは惰性に繋がり、ひいては自然に背く行為になるのでしょう。


また、最近はテレビなども見ないので朧げな記憶になりますが、およそ世俗に近いと思われる人ほど「分かっていること」しか話さず、話そうとしない印象があります。(ここでの「世俗」とは、変化を避けることや、今の立場を守ることに注力する姿勢を意味するものとします)


おそらく、人は未知に踏み込むときに精神性が問われるのでしょう。その際には知識や信仰に頼ることができず、誤魔化しが効かなくなります。だから、今の立場や自信を壊したくない状態の人にとって「分かっていないことを話す」というのは、とても危険な行為になるのだと思います。


今の僕は、自信を失うということをそれほど悲観的には捉えていません。

「失う」ことは多くの場合に悲観的に捉えられます。しかし、自信を失うことは擬似的な死であり、それまでの価値観が壊れた後で再生に繋がるからです。

今は変化を求めているので、冒頭で述べた夢はむしろ僕にとって吉夢と言えましょう。


長くなってしまいましたが、また気になった夢を見たら話そうと思います。ではまた。

扇動と指導

"Incitement and guidance"
「扇動と指導」




In every world, people want "light".
いつの世でも、人は「明かり」を求めます。


It is a light of where to aim to live.
どこを目指して生きれば良いのか、という明かりです。


There are instigators and leaders as the guides.
その導き手として、扇動者と指導者がいます。

Of course, it is the leader who guides people better.
無論、より良く人を導くのは指導者のほうです。

However, there are more instigators and louder voices, so many follow them.
しかし扇動者のほうが数が多く、声も大きいために、多くの人がそちらについていきます。


What are incitement and guidance?
さて扇動と指導とは、それぞれどのようなものでしょうか。


In a nutshell, incitement is to direct the other person towards the instigator's ideals.
一言で表すと、扇動とは相手を扇動者の理想へと向かわせることです。


Guidance is to bring the other person to a sophisticated state. Alternatively, take the path that suits the person he is teaching.
指導とは、相手を洗練された状態へと向かわせること。あるいは、指導する相手の本分にかなった道へと向かわせることです。


However, as long as it is a person who teaches, even if "perfect incitement" exists, "perfect guidance" cannot exist.
しかし指導するのも人である以上、「完全な扇動」は存在しても「完全な指導」は存在し得ません。


That is, there is always some incitement in human guidance.
すなわち、人の指導には常にいくらかの扇動が混ざっています。


It's not limited to this, but what matters is which one is the essence.
これに限ったことではありませんが、大切なのは、どちらの方が本質であるかです。


As a criterion for judgment, people who are overly loud or who seek faith rather than trust are generally regarded as instigators.
判断の基準としては、過剰に声の大きな人や、信頼ではなく信仰を求める人は、扇動者と見ておおむね間違いありません。


On the contrary, those who encourage themselves to learn, experience and introspect are likely to be leaders.
反対に、自ら学び経験し、内省することを促すような人は、指導者である可能性が高いでしょう。


The former also makes heavy use of instructions. However, some instigators are good at "inducement". This will be difficult to determine.
また、命令を多用するのも前者です。ただし、「誘導」に長けた扇動者もいます。この見極めが難しいでしょう。



(※ここでの「誘導」とは、相手に自由な選択肢を与えているようで実際には限定し、自分が意図する枠に誘うことを言います)

(また指導において「向かわせる」という表現には語弊があるかもしれないです。「導く」では安易な気がしたので迷いました。もっと良い言葉が見つかれば書き直します)

英語で一言(その5)

Google翻訳のまとめその5です。



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People often seek wealth because they are afraid to lose.
人は往々にして、失うのが怖いがために富を求める。

However, the wealth added from "fear" becomes a shackle to stop progress.
だが「恐れ」から足す富は、進歩を止める枷になる。

Therefore, leave only the important ones and throw away the others. Such courage is sometimes necessary.
だから、大事なものだけを残して、他は捨て去る。そのような勇気も時には必要だ。




Integrity does not mean being at a height. That's the attitude want to be noble.
高潔とは、高みにいることではない。気高くありたいという姿勢だ。



"What does that mean?" That question is the key to solving folklore.
「どういう意味だろう?」 その問いかけが、伝承を解く鍵になる。

( 伝承の言葉は単純ながら、曖昧なものが多い。早合点せず、伝え手の意図を読むように心がけたい)

「尊重する」ということ

今回は「尊重する」ということについて。

人間関係、特にチームワークが必要な場面では意見の衝突が起きやすく、ゆえに相手を尊重することは重要であるとされます。


友人関係などであれば利害関係が薄く、自然に相手を尊重しやすいと思われます。しかし、公的な関係になるほど「命令」や「多数決」で意見の衝突を回避することが多く、難しくなる事と思います。あるいは家族関係でもそうでしょう。


さて、「尊重する」とはよく耳にしますが、具体的にはどのような意味なのでしょうか。


手元の電子辞書には「尊いものとして重んずること」とあります。例によって曖昧ですねw


なので考えてみましょう。

「尊重すること」の意味が曖昧になる理由の一つが、他の言葉と混同しやすい事だと思います。

僕の推測ですが、尊重することと混同しがちなのが「肯定する」ということです。


「肯定する」の意味を辞書でひきますと、「同意すること、認めること、価値があると判断すること」とあります。

意味の第一に「同意すること」が来ているように、肯定と同意には一定の繋がりがあるようです。この事から、「尊重する=肯定する=同意する」というイメージができあがるのでしょう(多分)。実際に、肯定することは尊重すること、否定することは尊重しないことと扱われることが多いように思います。


しかし、辞書での尊重の意味が「尊いものとして重んずること」とあるように、尊重と同意には直接の繋がりはないのです。


「尊重」の対義語は「無視」であり、「否定」や「批判」ではありません。

たとえ相手を批判する発言をしても、ちゃんと相手のことを見ているなら、それは相手を尊重していることになるのでしょう。反対に、相手を褒めたり肯定するような事を言っても、それが相手を誠実に見ていないものであれば、尊重していることにはならないと思います。


思うに、尊重するとは必ずしも相手を肯定することではありません。相手を自分の理想通りの枠に当てはめる事をせず、しっかりと見ることです。すなわち、その人が何を感じ、考えているかを見て、意思を聞こうと努めることです。(一言でいうと「相手の意思を聞き、それに配慮すること」です)

だから、たとえ批判的であったり意見を否定しても、相手を誠実に見ているなら、それは相手を尊重していることになるのです。

悲しいのは、理解されていないのに理解したと思われること、批判ではなく誹謗中傷を受けること、自分の思い通りにしようとされること等です。


まとめると、「尊重する」ということにおいて肝要なのは、相手を肯定的に見ているかどうかではなく、誠実に見ているかどうかということになります。


とりあえず以上です。読んでいただきありがとうございました。



(尊重することが必ずしも相手を肯定することではない、ということに関しては、中国のある学派についての話があります。

一方の学派の弟子が他方の学者を批判したところ、師は「よく知りもしないのに(相手の主教義を)批判するな」と弟子を諭したそうです。両学派は互いに相手を批判しつつも敬意を持っていたとか。陽明と朱子だったと思います)



(※もう一つ人の話を聞く上で大事なのは、相手が「引き上げようとしているか」「引き下げようとしているか」だと思います。


「引き上げようとする」とは例えば、小説ならば、物語に矛盾がある場合や状況が伝わりにくい書き方をしている場合にそれを指摘する、また登場人物の行動がおかしい(キャラが崩壊している)のを訴える、などが挙げられます。

この際に核となるのは「もっと良くなってほしい」という思いを込めて働きかけることです。

また極端な例になりますが、それこそ銃弾で友人の足を撃ち抜くとしても、錯乱して地雷原へ突っ走るのを止めるためであれば、相手を助ける行為になるでしょう。(無論、銃器や刃物の扱いには注意が必要ですが)


「引き下げようとする」とは例えば、小説であれば細かい誤字脱字を指摘する、登場人物を下品な言葉で罵る、などが挙げられます。こちらは相手を引き落とそうと過激な物言いになることが多いので分かりやすいです。


おおむね「引き上げようとするもの」は批判、「引き下げようとするもの」は誹謗中傷と捉えるのが妥当でしょう。

ただ、一見は「引き上げようとする」ように見えても、自分が良い気分になるために批判をする場合も少なくないです。

大事なことですが、批判をすることには快楽が伴いやすいのです。この場合は、むしろ相手を蔑ろにしていると言えます。本質的に自分を見ているか、相手を見ているかの違いと言えるでしょう。


総合的に見て、相手を誠実に見ず、かつ引き下げようとする目的の言葉はそれほど聞くに値しないでしょう。逆に、誠実さや引き上げようとする目的を伴う言葉は、たとえ不快であってもある程度は耳を傾けるべきだと思います。

そして話す側としては、自分の思い描く理想に当てはめようとせず、できるだけ相手を知った上で話したほうが良いでしょう。特に、「相手が置かれている状況」は盲点になりやすいです。今度こそおしまいです)

(なおネットで漁った記事では、尊重するとは「相手の力の欲求に配慮すること」とありました。そちらのほうが的確ですねw 多分すぐに出てきます)

英語で一言(その4)

翻訳のまとめその4です。今回から量は少なめ(4〜5個ぐらい)にします。



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The game is fun, but I'm not good at fighting
勝負は楽しいが、喧嘩は苦手



Oh, I didn't have any debt
ああ、負債なんて無かったんだ



I'm not jealous on my way. Because I'm the only one on the road.
自分の道では嫉妬することがない。なぜならその道には自分しかいないからだ。

( 嫉妬が起こるなら、それはおそらくまだ自分自身の道や方法ではない。way が道と方法を表すのは、方法が道に直結するからだろう。

他人のやり方を見て真似をすることは有力だが、それに沿うほど自分の道からは遠のき、嫉妬が起きやすくなる。「学び」の難しい所だと思う)



In the sadness of a person, there is no greater sadness than the death of the heart.
いったい人の悲しみでは、心の死ということより大きな悲しみはない。(「肉体の死はむしろこれに次ぐもの」と続く。『荘子』)

英語で一言(その3)

Google翻訳の一言まとめその3です。



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I'm prepared for both
どちらに対しても覚悟はできている (ウェルギリウスアエネーイス』)




Wealthy people value materials
富者は素材を大切にする

It doesn't mean to stick
こだわる、という意味ではなく

They know what is valuable to them and what is not
自分にとって何が価値あるもので、何がそうでないかを知っている



What you don't do is often far more important than what you do…
何をやるかということよりも、何をやらないでおくかということの方が、はるかに重要であることが多いのですが… (ハマトン)



Genuine means not to be deceived. Not having talent or ability
本物とは誤魔化さないこと。才能や実力があることではなく



Every time a person becomes stronger, the vessel is questioned
人は強くなる度にその器が問われる



Those who go their own way are required to do the following three things
自分の道を行く人には以下の3つが求められる

First of all, the courage to take on the challenge
まず第一に、果敢に挑む勇気

Next, the humility to admit own weakness
次に、弱さと向き合う謙虚さ

And above all, Will to continue to create the way
そして何よりも、道をつくり続ける意志



Fear glows in the dark
恐怖は暗闇で光る



The question is more important than the answer
答えよりも肝心なのは、問い (カスパロフ)



It's a sin just because you don't know!
知らないということだけで罪だわ!
(FFT ミルウーダ)



Not knowing is not a sin. It ’s a sin to be in the seat without knowing it.
知らないことが罪なのではない。知らないでいることにあぐらをかいているのが罪なのだ
(TFS クラトス)