夢を見て

寝ている時に見る夢の話です。


昨日、知らない人に銃を向けられる夢を見ました。(もっと言うと撃たれましたが、外れました)


何やら物騒だし滅多に見ない夢なので、気になってネットで少し調べてみました。

すると、銃を向けられることには「恐怖心のあらわれ」や「自信の喪失」を意味することが多いそう。

上記の意味が主ですが、男性がこの夢を見た場合の見解はかなり分かれるようです。(女性の場合は、興味のない男性に好意を持たれ苦しんでいるのを示しているというのが通説のようです)


今回のこの夢は、僕にとって「自信の喪失」を表していると思いました。というのも、自分ではこの数年で精神的にも変化を遂げることができたと思っていたのですが、先日も少し書いたように、まだ相当な驕りが残っていることに気づいたからです。


「驕り」は明らかに僕の課題です。そのため、このブログでも外部の事情を扱うのではなく、しばらくは自分と向き合う趣旨で書いてみようと思いました。しかし、何を書けば良いのだろう?と悩んでいたところです。


さて本題に入ります。指針に悩んでいることもあってまた読書をしているのですが、先日『荘子 (岩波の第四冊)』を読んでいて、以下の言葉が出てきました。


「分かっていながら言わないでいるというのは、自然の道理に近づいていくことであるが、分かったことを表現して話すことは、世俗の人の立場に近づいていくことである」


意味がわかりませんでした。分かっていることを話すのが自然に背くなら、何を話せばいいんだ?と。


でも確かに、たとえば将棋で知っている手しか指さない、あるいは手くせで絵を描き続けるというのでは「変化」が生じません。

自然は変化をし続けるので、慣れている方法だけを続けるのでは変化がなく不自然になると言えます。したがって、分かっていることだけを話すのは惰性に繋がり、ひいては自然に背く行為になるのでしょう。


また、最近はテレビなども見ないので朧げな記憶になりますが、およそ世俗に近いと思われる人ほど「分かっていること」しか話さず、話そうとしない印象があります。(ここでの「世俗」とは、変化を避けることや、今の立場を守ることに注力する姿勢を意味するものとします)


おそらく、人は未知に踏み込むときに精神性が問われるのでしょう。その際には知識や信仰に頼ることができず、誤魔化しが効かなくなります。だから、今の立場や自信を壊したくない状態の人にとって「分かっていないことを話す」というのは、とても危険な行為になるのだと思います。


今の僕は、自信を失うということをそれほど悲観的には捉えていません。

「失う」ことは多くの場合に悲観的に捉えられます。しかし、自信を失うことは擬似的な死であり、それまでの価値観が壊れた後で再生に繋がるからです。

今は変化を求めているので、冒頭で述べた夢はむしろ僕にとって吉夢と言えましょう。


長くなってしまいましたが、また気になった夢を見たら話そうと思います。ではまた。