セイレーン

   ∽「誘導 ―この世で最強の術」∽





人間には「そう思いたい」という性向がある。冷静な思慮の末にそう思うのではなく、自分が望むゆえにそう思う、ということだ。

例えば、「読書をすると賢くなる」→「漫画も読書に含まれるだろう」→「ならば漫画を読むと賢くなるに違いない」というように。


この性向を利用した術が「誘導」である。当たらない宝くじを買い続けてしまう現象があるように、たとえ壊滅的な確率でも救われると「思いたい」のが人の性なのだ。


人を操る者はこれを利用する。アメとムチ、恐怖と希望を駆使して巧みに糸を引く。

宗教における「天国と地獄」やそれを利用した「免罪符」、企業に所属することによる「社会人の地位=社会から追放されない保証」などが顕著に利用される例である。


死神の鎌による一閃はまだしも優しい。

直接攻撃は、実はさほど恐くない。「見える」ために対処しやすいからだ。真に恐れるべきは、誘導のような間接攻撃である。それは得てして気づきにくく、無防備なところに侵入してくる。そしてしばしば対処が遅れ、侵入に気づいた時には既に大打撃を被っている。ゆえに誘導は強力な術なのである。


重要なのは、脅威が忍び込む隙を与えないことだ。魅惑の声にさらわれてから対処しても手遅れであり、ゆえに「今自分は誘導されていないだろうか」と早期に気づくこと大切である。荒れ狂う波よりも、その源泉をこそ恐れねばならない。


最も注意すべきは快楽についてである。「思いたい」という性向は快楽において特に著しい。背徳感があろうとも、「三大欲求だから」「みんなやっているから」という囁きに押しつぶされてしまう。

このため多くの人は容易く快楽へ誘導される。恋は目を奪うが、快楽は思考を奪う。それこそが支配の基盤であり、人々を駒に変える源なのだ。パンとサーカス古今東西の国で活きている。


だが、快楽に溺れるのは民に任せておけばよい。我々にはもっと目を向けるもの、追い求めるものがあるはずだ。


究極的には戦場で自分を導けるのは自分のみ。魅惑の声を遠ざけて、深奥から鳴る声を聞こう。



あなたは何を求める?






「君が賢者になるには、耳を閉じればよい」
―『セネカ哲学全集5』


「悪を決して喜ぶな。善を得るようにつとめよ」
―『エッダ (オーディン箴言)』


「きみがちょっと注意を怠るとき、いつでも好きなときにそれを取り返せるだろうなんて考えぬがいい。むしろ今日の過失によって、必然他のこともきみの事柄は悪くなるということを、覚悟するがいい。というのは、まず不注意というもっとも悪い習慣が生じ、つぎに注意を延期するという習慣が生じるからだ」  ―エピクテトス『語録』





以下は補足。




☆「フォートレス」


控えたい行為があるなら、確率の砦を築けば良い。

つまり、その行動を選択しにくくなるように、自分を誘導する仕組みを作れば良い。

例えば、ネットを控えたいならロックのアプリを使う、お菓子を控えたいなら常備しない、テレビを控えたいなら叩き壊す(あるいはメルカリで売る)、というように、物理的な制限をかければその行動を自然に控えやすい。

中毒症状は間隔が空くほどに和らぐ。すなわち、その行動を控えるほどさらに控えやすくなる。ゆえに「頻度を下げる」 、これだけでも十分に効果があるのだ。

特に男性は青年期に快楽を制御できれば大きなアドバンテージを得られる。卑猥なものを冷静に見る(欲情しない)訓練をしても良いが、いっそ排除する方が容易だろう。


衝動(特に性)のコントロールについては、その実行を「延期する」のがしばしば有力であると説かれる。


「ある肉体的欲望の幻影がきみの心に浮かんだなら、その他の肉体的想像の場合と同じように、それに心を奪われてはならぬ。むしろその実行をしばらく延期すべきである」 ―ヒルティ『幸福論』


「たとえ引き延ばしを図って効果は何もないにしても、そこにはすでに判断のあることは明らかである。…何事にせよ、それがどんな性質のものかを知ろうと思えば、時に委ねるがよい」
セネカ『怒りについて』


特に男性の性欲は正攻法では太刀打ちできない。だが、それだけに退けた際の報酬も大きい。焦らず時を味方にしよう。


(性を断つなんて狂気の沙汰?上等だ。狂気なくして圧倒的な力が得られるものか)


(※性や快楽そのものを否定する訳ではないです。特に芸術家など豊かな感性を要する人はある程度享受するのも良いかもしれません。ただ一般的に、また求道者のような性質をもつ人には節制が重要なピースになることでしょう)



☆「嘘と錯覚」


錯覚させることは嘘よりも強力な術。

嘘は一方的かつ単純な攻撃だが、錯覚は半ば自発的にかかるために、嘘よりも強く対象を縛るからだ。

だから、導く事には勿論、導かれる事にも力がいる。魔法の泉と見せかけて毒の沼に誘われたりもするのだから。(悪いことに、高位の悪魔ほど悪魔の外見をしていない)

嘘よりも錯覚などの誘導術に気をつけよう。



☆「癖と個性」


癖と個性は似て非なるものだ。

個性は星の輝きのように、飾り気がなく自然である。しかし個性は癖と混ざりやすいために、しばしば癖の山に埋もれている。

「そう思いたい」という性向が癖が生まれるのを助長する。これで良いはず、と思う時には癖が生じている可能性が高いので注意しよう。

悪癖を取り除くには、自身を客観的に省みる必要がある。それには困難が伴うが、内省の暁には無二の輝きが表れるだろう。




☆「ウルズの泉」


誘惑によって生じる欲求は、純粋な欲求とは異なる。


「ソシャゲでSRが当たったぜ!」 などは本当の喜びではないはずだ。気分が良い事と純粋に楽しい事は区別した方が賢明である。前者は虚しい快楽に似ている。


戦士が好敵手と対する時、賢者が難問に挑む時、彼らの心は躍動する。純粋な楽しさとは、呼吸するように心が活きるものなのだ。


甘美な誘惑を遠ざけて、泉の畔で耳を澄まそう。精が本当の欲求を教えてくれる。