あかつき

あけましておめでとうございます。(遅いよ)

このブログを始めてから1年と少しが経ちました。早いような遅いような。


ともあれ、Twitterの方でも書いたのですが、去年はどちらかと言うと自信(慢心?)を打ち砕かれた年でした。


もちろん、創作の道が拓けた事などのように、新たに育った自信もあります。でもそれ以上に、自分の未熟さを痛感しました。


ここでの未熟さというのは、主に精神性です。

具体的には、「自分の言葉で話す」という事がこれほど難しいとは思いませんでした。自分の言葉で話すと、「誰々がこう言っていたから」などの後ろ盾が無くなるからです。

僕はそれまで、人から教わった事などを頼りに言葉を紡いでいました。しかし、自分の奥深くから出た言葉であるほど、失言した際に、痛烈なダイレクトアタックとなって自分に突き刺さります。


ブログは一人言の性質が強いので ( 特にこのブログは)、社交場で話すほどには神経を使わないです。でもTwitterではそうはいきません。あちらは「読まれる」ことが前提であるからです。かつ、修正が効きません。消すことはできますが、一度流れてしまえば永遠に跡が残ります。


自然なやり方によって出た言葉であれば、ある程度の摩擦が生じるのは仕方ないでしょう。でも自分の不注意や未熟さによって人を傷つけたり、むやみに不快にさせたりしてしまうのが嫌なのです (事実、そうなってしまったことが何度かありました)。


そういうこともあり、今までに読んできた本をまた読み返したりしていたのですが、その中で「自分が物知りだと、何か知っているなどと思われたがるな」という旨のことが書かれていました (たしか、エピクテトスの本です)。


その程度の基本も忘れていたことに、とても恥ずかしくなりました。というのも、僕はかなり「すごい」と思われたくて物を書いたり、振る舞っていた面があったからです。


それは幼少期から、知性的な面を抑えつけられてきたコンプレックスから来ていたのかもしれませんが、まずそういった傲慢さを克服する必要があると思いました。最近の変化は、そのような背景があるのが大きいと思います。



まあTwitterのことはその辺にして、このブログの話に移ります。

とりわけ僕はこのブログにおいて、自分の主張を強めたいがために、かなり極端な書き方をしてしまうことが多かったです。

例えば、「火の扱い」には注意が必要ですが、だからといって「火は危ないから使ってはいけない」と言うのは行き過ぎで、「使うにはこういう注意が必要」と伝えるべきです ( 軍隊での訓練、という訳でもなければ)。

大事なのはどのように接するかですし、そのような区別ができないのは未熟な証に他なりません。

相手が危険な方へ流れないように語気を強める、という目的があるならばその限りではありませんが、それにしても乱用は避けたほうが良いでしょう。
なぜそれが危険なのかを伝えるのが最も重要で、引きちぎるような抑圧こそ危険だからです。



僕はよく「あれをするな、これをしろ」と言われて育ってきたのですが、その不満を抱えて他の人に同じことをするのは嫌ですし、命令は最も安易な伝え方なので、伝えたいのであれば別の工夫をする必要があると思いました。まだ色々と悩んでいるところですが…。


何が言いたいのか分からなくなってきましたが、僕はまだどこかで自分を「普通 (あるいは、まとも)」だと思いたいからなのか、自身の抑圧された過去やハンディを軽視する癖があります。

でもそういうのも、「複雑」という表現で蓋をしない方がいいのかなと思いました。( 紐解ける余裕ができれば。最近やっと感情の出し方を少し覚えた)


というわけで、これからも工夫しながら続けていこうと思います。読んでいただきありがとうございました。



(なぜ毎回こうもまとまりがなくなるのか)