果てなき道

今回は「謙虚さ」について。


何気なく将棋の永瀬先生について調べていたら、「なぜ永瀬拓矢藤井聡太を研究会に誘ったのか?」という記事を見かけたので読みました。それで少し、思ったことを。


永瀬先生は将棋に親しむ人なら知る「努力」の人ですが、その質量が(おそらく棋士の中でも)圧倒的であることは以前から不思議に思っていました。一体、何がその糧になっているのかと。

『永瀬流 負けない将棋』でも見ましたが、彼の勉強時間の目安としてはプロ棋士になるまで一日8時間〜10時間ほどされていたようです。プロになられてからは、あるいはそれ以上かもしれません (仕事の都合などで減らない限りは)。


その圧倒的な努力の秘密はどうやら「謙虚さ」にあるようです。

詳細は割愛しますが、冒頭に紹介した記事の中で、永瀬先生が四段の時に、鈴木八段から「プロがアマに負けるなんてありえない、そのような人とは一緒にいたくない」という旨の内容で、厳しく叱責されたようです。

それが永瀬先生に未だ残っていたプライドを捨て去り、殻を破るきっかけになったのだとか。


また、彼が藤井(聡太)先生を研究会に誘ったのも、藤井先生の「強さ」というより、「謙虚さ (を主とした精神性)」が理由だったようです。

僕が冒頭の記事の内容を意訳する形になりますが、永瀬先生曰く「 (当時14歳という若さで) 既に実力を身に付けているなら、天狗になるのが自然。それで謙虚でいられるというのは凄まじい精神力」であるとか。



記事を通して僕が思ったのは、果てのない向上心の裏には途方もない謙虚さがあるらしい、ということです。

僕も常々思っていたのですが、現在の実力に「満足」してしまうと、慢心が生まれ、途端に向上意欲や探究心が失われるように思います。

あるいは「自分はまだ本気を出していない」などと思うのも傲慢さの現れで、それは可能性を残しているのではなく、むしろ潰してしまっているのでしょう。

彼らは、向上し続ける人達は、何よりも「自分の力量」を知っています。いや、「痛み」をもって身に刻もうとつとめています。

それは「自分の弱さ」を知ることに繋がるからで、そこから本当の歩みは始まるようです。


僕はと言うと、自分の傲慢さは知っていたつもりだったのですが、まだまだ若気の殻を被っていたようです。

正直、僕が歩んでいる道 (表現し辛いのですが、強いて言えば思想の道?)にはとても人が少ないので、自分の力量を知りにくいのはある程度は仕方ないのかもしれません。でも、それを言い訳にしているところがありました。

加えて知的な領域では、将棋や絵などに比べて卓越性が見えにくいです。しかし、おそらくそれを知ることを含めての「道」なのでしょう。それらは、知的に卓越しようとする者にとっての試練です。だいたい、賢者になることを志す者が、自分に酔って盲目になるほどの愚行があるでしょうか。



とにかく、僕はまだまだ修行が足りないということのようでした。

おしまい。


(あと、永瀬先生は「教えていただいた」という意識が濃くあるようです。確かに、「自分(だけ)の力でここまできた」と思うと助力を得にくくなる、というのは聞いたことがあります。※助力は目に見える力に限らないです)


(追記。僕は「努力」という概念についてかなり懐疑的ですが、それは無闇に苦労したり、エネルギーを「浪費」してしまう傾向が強いからです。

永瀬先生が行っているような「本当に興味のある分野に沿った努力」は「自然な努力」であると言えます。でもそのように、本分を見極めて自分の道を進んでいる人はとても少ないのです。

「(不自然な)努力をして成功した」人というのは物凄く少ないのが現状ですし、一部の人や状況にしか有効でない戦略は不完全極まりません。だから無闇な努力は危険なのです。
※努力については「ヘクシス」という記事に少し書いてます。努力は重要かつ、罠に陥りやすい概念なので、また独立した記事を書こうと思います。

※ 永瀬先生にとって努力とは、「一時的なものではなく、息をするように、無理なく続けられるもの」とのこと。一般的に思われるような努力のイメージとは相当に異なるようです)



(「努力」はラテン語で conatus と言うようです。

conatusは、「事物が生来持っている、存在し、自らを高め続けようとする傾向」を意味します。Wikipediaより)